穏やかに晴れ上がった日曜日の朝、福島市のカトリック教会では信者ら約100人が集まり、厳かにミサが開かれていた。

 カナダ・ケベック州出身の神父、シャール・エメ・ボルデュックさん(80)は、聖書を読み上げながら、同胞の神父のことを思い浮かべていた。宮城県塩釜市の塩釜教会にいたアンドレ・ラシャペルさんだ。

 2人が最初に出会ったのは50年以上前。エメさんはまだモントリオールの大学で宗教学を学んでいる最中で、赴任先をどの国にするか決めかねていた。宣教師として先に日本に渡り、一時帰国していたラシャペルさんは、日本の印象をこう教えてくれた。

 「とても良い国。まじめで、勤勉な人々と私は暮らしています」

 エメさんが来日したのは1970年。まずは2年間、日本語を習得することになっており、東京・世田谷で、先輩神父ら8人と共同生活を始めた。そのうちの1人がラシャペルさんだった。性格は生真面目。読書家でいつも小脇に本を抱え、日本について勉強していた。

 研修を終えたあと、エメさんが配属されたのは青森県八戸市。赴任して、ショックを受けた。あれほど日本語を勉強したのに、地元の人たちの方言がわからない。

 ラシャペルさんに相談すると、「焦らなくていい。まずは人々とゆっくり歩みなさい」。そう優しく声を掛けてくれた。

 八戸市で約2年過ごし、いったんカナダに戻ったあと、弘前市で約12年間勤めたエメさんは、98年に仙台市内の教会に赴任した。

 ラシャペルさんはその直前、塩釜教会に着任しており、2人は以前のようにつきあった。

 年齢を重ねても、ラシャペルさんの生真面目さは変わらなかった。教会の仕事のほかに、仙台市の私立高校で宗教を教え、仏教の僧侶らと一緒に、刑務所で受刑者らと向き合う教誨(きょうかい)師の活動も続けていた。

 塩釜教会に併設されている幼稚園の保育士だった佐藤香さん(57)は言う。

 「『私は面倒くさいという言葉を知らないのです』というのが、彼の口癖でした。何事もおろそかにしない性格で、園児にもよく英語を教えてくれた。『英語を一生懸命、勉強してくださいね。そうすれば、世界中の人たちとお話できるようになります』と」

「僕は行く」 振り切った説得

 2011年3月11日。この日は、エメさんが勤めていた仙台市の教会で会議があり、ラシャペルさんも出席していた。

 その時、大地が激しく揺れた。

 収まると、ラシャペルさんは言った。「みんな、不安を感じていると思う。私は塩釜に帰りたい」

 「大きな余震が続いている。車での移動は危険だよ。特に沿岸部は、津波が襲ってくるかもしれない」

 エメさんがどんなに説得しても、ラシャペルさんは聞かなかった。

 「僕は行くよ」

 「それではどうか、お気をつけて」

 翌日午後11時、エメさんが勤める仙台市の教会に、カナダの教会幹部から国際電話がかかってきた。

 「ラシャペル神父の遺体が、教会近くの路上で発見されたらしい。明日、遺体安置所で確認してほしい」

津波に巻き込まれたわけでもないのに、なぜ神父が……。葬儀の日にも驚く出来事がありました。

 最初、エメさんは話がうまく…

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